進振りと司法試験から感じたこと

進振りの第二段階の結果がTwitterで回ってきたのだが、例年底割れがないところで底割れするなど(機械Bや法学部文一など)、なんか全科類の制度になってから底割れの傾向がカオスになっているとのことらしいです。まあ全科類制度云々という以前から理物に人が集まらなかったり、印哲に人が来たとかそういうお祭りになることがあった進振り制度なのだが、やっぱりなんかこの制度変だなーおかしいなーと思うところは多々あります。

そもそも進振りの意義というのは

東大の誇る「リベラル・アーツ教育」の一環であり、東大生が「東大までの人」になってしまわないよう、東大合格後も学生が互いに切磋琢磨し合い、自ずから研鑽を積むことができるように考案された、と言われている。
進学振分けとは? – 東大進振り情報サイト UTaisaku-Web

ということらしく、大学入ってからもいろんなこと学んで競争せえよということだそうです。しかしそもそも進振りの対象となるのは最初の1年半で取った成績のみ。それでしかも平均点で評価する(もちろん細かい評価基準はあると思いますが)、といった構成なので、それだとタダの点取レースだよね。。。と当時から自分は思っていました。自分の場合はとても不真面目で毎日オーケストラのための練習に明け暮れていたため、進振り時の点数なんてもちろん覚えていないし、ほとんどが良とか可ばっかりだった気がします。ただそれでも、自分の興味ある分野とか講座については必死で勉強しましたし、優もいくつか取れました。シケプリのようなもので取った単位も沢山ありましたが、それで果たして自分のためになったかというと、そんなことはない。

進振りというのは平均点の高い人から順番に行きたいところに行ける、という制度なので、もちろん努力した人は報われますし、何もやっていない人はもちろんダメ、というのは一見合理的な制度かと思います。しかしすべての人にとって合理的であるシステムというのは、かならずしも最適な解を生み出すない、というようにも思えます。例えば極端な話だと、物理に関しては類まれなる才能を発揮する学生がいても、外国語、生物はからっきしダメというのは知り合いにも沢山いましたが、そういう人たちは結局進振りでは進学に必要な点数が取れず、思いがけない学科へ進んでいったりもしています。非常にもったいないことだと思います。

多分東大が世界の中でそんなに突き抜けた評価が貰えていないというのは、合理的な選択による最適な人材の見落としが、原因の一つじゃないのかなぁと思います。リベラルアーツ主義は最もなことですし、人生をより豊かにすることは間違いないと思います。でも大袈裟な話、国家戦略としての人材育成方法としてはかなり間違った方法を取ってるんじゃないかなぁと考えています。京大の数理や東北大の材料系のように、何か一点突き抜けたものがあるのと無いのでは、やはり評価は全然変わってきますし、優秀な人材も自然と集まりやすいのでは。。。とも思います。

かと言って進振りはもう確固たる制度ですし、今更大きく変えようにも今のままじゃ変えられないでしょう。今後もこういう人材の均し化が進んで行くのだと思います。でももう少しやりようを変えるだけでも、結構変わってくるんじゃないかなぁと思います。中高の友人である北川くんは茂木健一郎氏との対談で、ハーバードの進学システムについて軽く触れています。

専攻を決めるというか、取得した授業の単位が、行きたい専攻の条件を満たしていれば、degree(学位)がとれるというシステムになっています。だから、何年次という縛りはなくて、いつでも決められます。そして、たくさん授業を詰め込んで単位をとりまくれば、degreeはいくつでもとれる。それで、僕は4年の間に数学科と物理学科、どっちの学位もとりました。
【第1回】ハーバード大学って、どうやって入るの?|茂木健一郎・北川拓也|天才のつくり方|cakes(ケイクス)

そもそもアメリカの大学とはシステムが異なる部分が多いので一概にこうせえということは言えませんが、必要な学位を揃えれば学ぶことが出来る、というのはせめて模倣することは出来るんじゃないかなぁと思います。進振りでも要求科目とか要望科目とか、うちではこういうのを重点的に見てますよ、というシステムを取ってはいるのですが、そうじゃなくてめちゃくちゃ重みをつけるなどもっとシビアに評価するほうが、優秀な人材を見落としてしまうリスクっていうのは割りと減らせるんじゃないかなぁ。なんというか、今の進振りというのは学生にそれぞれ進学の落とし所をつけるにあたって、ただ単に目の大きさの違うザルでふるいをかける程度のことしか出来ていないんじゃないかと。例えばちょっと火で炙ってみるような感じで、評点にちょっと手をいれるだけで、優秀な人材を理に適ったところへ放り込むことは全く可能だと思うんです。何でもできちゃう人は何でもできる学科に行ければいいし、コレがやりたい!と思う人はコレができる学科に行けるようなシステム。

で、逆にそういう受け皿を無駄にひろーく取っちゃうと、学生の方もコレと決められないし、余裕ができちゃうから自主性も下がってしまいます。でもその方が制度的には合理的でみんなが納得できるシステムだ、と主張してしまうんですよね。みんなが納得するもの、みんながほしいものはヒットしないというのは巷で言われるようになって久しいですが、それはシステムでも同じだと思います。もちろんエラーがあってはいけません。でも冗長過ぎるのもどうかと思うんですよね。その結果がこないだの司法試験だと思うんですが。

十一日に合格発表があった新司法試験で、法科大学院修了を受験の条件としない予備試験組の合格率が68%に上り、関係者に衝撃を与えている。経済的事情などを考慮して設けられた「例外ルート」だが、どの法科大学院よりも高かったからだ。これをきっかけに法科大学院離れが進み経営悪化に拍車が掛かるとの見方も出ている。
東京新聞:新司法試験 法科大学院離れ拍車:社会(TOKYO Web)

予備試験を突破するのって1%くらいの確率なのでそもそも優秀な人ばかりなんですが、正統的にロースクールに入ってきた人たちよりも、なかば裏ワザ的に受験資格を勝ち取った人たちのほうが成績が良い、というのはそりゃそうだなぁと思うわけです。受け皿が大きいというのは、逆に自主性をなくしているのと同じだと思います。はじめから司法試験に合格すること有りきで予備試験に臨んでいるわけですから。別にロースクールが悪いとは言いません。ロースクールに行った友人はたくさんいますし、実際彼らも司法試験に合格して弁護士資格を手に入れたわけです。並々ならぬ自分とは比較できないほどの努力をしています。一方で客観的にこういうデータが出ちゃうと、制度そのものに意味が無いと考えざるを得ません。

ある人が何をやりたいからコレを目指すというのは当たり前のことです。でも実際にその人に適性があるかどうかというのはまた別の次元だと思います。趣味では下手の横好きという言葉はありますが、高度な技術・技能を要する専門職においては、適性というのは非常に大きな意味を持ちます。何でも出来る、というのもひとつの適性ですし、コレしか出来ないよというのも重要な適性です。それを見極めるのが選ぶ方の重大な役割でありシステムなのです。本当に合理的であるならば、これらの人たちの適性を十分鑑みて、然るべき所へ進路を向かわせることが第一のはずです。今はシステム自体が合理的なのであって、手段が目的化しているようにも思えます。多分進振りとか司法試験だけではなく、税金や生活保護などの社会保障もそういう危険性を孕んでいるように思えます。抜け道が悪いのではなく、抜け道を利用せざるを得ないシステムが良くないのです。

進振りの話に戻ると、早くて18歳の少年少女が多様な学問に触れるという大前提の元で、1年半で自分も大学もその適性を見出さなければならないわけですから、非常に難しいところだと思います。でもせめて平均点で学生の順番を決めて、頭のいい人たちからとりあえず行きたいところに行きなさい、というのはやっぱり非常に惜しいと思うんです。自主性を重んじるという姿勢が、今は責任を全て学生に放り投げているというようにしか見えないんです。自主性を重んじるなら、その姿勢を汲み取ることが本来やるべきことじゃないのかなーと、秋の日の昼下がりに思ったことでした。


About しゅ

修士課程終了後、某素材メーカーに就職→1年2ヶ月後退職、大学に戻り2011年10月から博士課程在籍。 専門は表面機能材料およびトライボロジー、特にナノカーボン材料の合成プロセスと物性解析。 妻子持ち。7歳長男、2歳長女。 2013年4月よりJSPS特別研究員(DC2) Twitter @sss7sss77 Facebook shu.sawai
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